最近、SNS見る機会が減って
Youtubeも好きなチャンネルを見るとかより
ダラダラと見てしまう時間が増えた。
スマホに関してはまず電源を切っていて
起きたら電源入れてなんとなくメールとかSNSを徘徊して(30分くらい?)
また電源を切る。
で、こうやって記事を書いたりするのでパソコンを開くのだけど
Youtubeを無意識に開いてトップページに気になる動画がなかったら
再読み込みしてまた別の動画が来ないか期待して
結局いいのがなくて今までみた動画をまたボケーっとしながら眺めて
結局最後まで見ずに途中で閉じる。
で、記事書いたり、小説書いたりもなんだか手につかなくて
パソコンも閉じて
本を読むでもなく
布団に入り
ぼーっとしている時間が増えた。
ぼーっとじゃない
ぼーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
っとしている。
目をあけて。
大半は脳みそが休む時間かな?と認識し始めて
瞼が重くなり、気づいたら寝てるっていうパターン。
で、目をあけて何かを見るでもなく部屋を眺めて
具体的に何かを考えているわけでもなく
過去の記憶や最近聴いている音楽や言語かわからん何かやらが頭の中で
ぐるぐるしている。
最近では、ぼーっとするとデフォルトモードネットワークっていう神経回路が働いて
脳内の情報が整理されるとかなんとかをよく聞くんだけど
認知症のぼーっとの境界線はどこなんだろうと思ったりしている
というのがここ数日の話。
で、シャワーを浴びている時にアイデアが閃きやすいっていう
定説に綺麗に乗っかって今日の話を書こうと思ったのだけど
僕は人として生まれたのなら人らしくいたいと漠然とでも思っていて
その中で考える、感じるっていうこと
脳みそを使う、感覚をちゃんと感覚として感じるって
その人間力を上げる(あるいは下げない)ために
めちゃくちゃ大切なんだろうっていうこと。
ぼー(以下略)っとしていて今何を考えてるんだろうとか
ふとした記憶を遡ってあんなことあったよな〜って感じるとか
ぼ(以下略)としている時じゃなくても
日常生活というか
生きている時々で何かを考えたり
今起きていることに対して感じている感覚に意識を向けてみたり
そういうのはタイパ、コスパで測れるようなものじゃなくて
人として死ぬまで持つあるいは死んだ先でも持ち続けるくらい
必要なことだと思うけど
社会的には
というかなんとなくの風潮を想像するしかできないけど
あまり深く考えすぎないとか、自分の感情や感覚を誤魔化してまで何かに取り組むとか
そういうのに溢れている気がする。
考え過ぎに悩まないとか、悲鳴を上げてる体に鞭打って働くとか
個人的な解釈だけれど
それは自ら人という存在から離れていってるのではないか。
人間以外の例えば機械、AIとか
社会的に正しいと思われていることは実は人間力を減らすことに
つながっている要素は実はあるんじゃないかと
勝手に思ったり。
もちろん人とはなんていう疑問は
1つや2つほどの答えで言い表されるものではないけど
その中にある指標の1つとして
考える、感じる
簡単に答えを出すようなことでも
いくら考えても答えなんて出ないようなことでも
考えてみる。
答えを出すことよりも何かについて考えること。
あついと感じたらあついんだとか
嬉しいと感じたら嬉しいを表に出すとか
つらいと感じたらそれに蓋をしないとか
無理に押し込めない。
(怒りは難しいけども)
そういったことに向き合うため1つの方法として
ぼっとすることはありなんじゃないかしらと。
僕は人間力を高める意味で
脳みそのシワを増やすっていう表現を使ってるんですが
その意味で考える、感じるっていうのは
シワを増やすいい方法なのではと思ってます。
そう思うと「考える人」の見方にも少し味が出てきたりするんですかね。
まあはたから見たら何もしていないような
けど、本人の頭の中では色んな世界が広がるような時間を過ごすことが
自分の人生を肯定はしなくとも
受け入れられることに繋がったりもするんじゃなかろうか
といったところで
今回は以上です。

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