大した学力もスキルも身につけず学生時代を終え
社会人になってからも忍耐力のなさに職場を転々として
誠実に社会の歯車になった結果
計画性もなし、知力も体力もないので
ちゃんと体を壊し
なまじ趣味の読書で培う知識のせいで
周りと合わせるようなことを望まず
宝くじにも期待することなく
信仰する自分にとっての神がいるわけでもなく
孤独を好んで他人と関わらず
そのくせ生まれつき?の繊細な感性のせいで
少しのことでメンタルがブレる
新しいことも続かず
時間を忘れるほど熱中できるものもなく
(やれば楽しいと感じることは沢山あるけど)
生きてるんじゃなく生かされている
誰かのために頑張る目標もなければ力もなく
死ぬまでに達成したいと思えることもなく
存在価値がないに等しい
なぜ生きてるのかと考えれば
生きたいからというより
ただ死んでいないからだという他ないといった
人生を過ごすにあたって
死ぬまで孤独、死んでも孤独の
人生おひとり様コースを
どう生きていけばいいのだろうか。
1つは今世における自分という存在にキッパリ見切りをつけて
自分で人生を終わらせる。
ここで考えるべきは
死んだ先が現状より良いかどうかはわからないということ。
天国にいくのか、地獄に行くのか、そもそも何もない無になるのか。
それらを踏まえて今あるいは将来的に衰弱するまでに
生きるだけの価値を見出せるかをしっかり検討する必要があるだろう。
現状が嫌だからという理由で死を選ぶのは余程の覚悟が必要になってくる。
死んだ先が今よりも辛くないという保証はない。
もう1つの可能性として
生きる選択をするのであれば何を考えて生きていけばいいのだろう。
この記事を書いている時点で思いつくのは
合わせない
期待しない
頑張らない
ということ。
合わせない
これは社会そのものというか
社会不適合になったという自覚がある以上
その社会に再び馴染むためのハードルは
他人が思っている何倍も高い。
それはできるかできないかという側面もあるけれど
できるけどしたくない
した後に得られるものが少ない、むしろマイナスという
側面もあるだろう。
社会において
周りが簡単にできることは
自分にとっては難しいことだし
周りが難しいと思っていることは
もはや自分には無理に等しい。
そんなことが多い中で外面は取り繕うことができても
心が摩耗していくばかりで続かない気がする。
大衆の流れに合わせない
ということも言えるだろう。
(身近な環境、社会的に)周りと同じような選択
行動をした結果
自らが無能であることを理解した以上は
周りとは違う道を選ぶというのは必然と言ってもいいのかもしれない。
真逆とは行かなくても
周りと違う選択をしていく
その先にもやはり自分と同じ選択をしている人はいるので
その中でもあえて少数派の選択をするということをしていくのは
生きていく上で必要な意思だと思っている。
そのためには周りと違うことに対する
恐怖や孤独感を受け入れることも必要であろう。
というか、実感としてはそれに何か対策をするというよりは
むしろ周りと同じ選択をしないことに何か特別感を感じるような
錯覚に自然と陥るので心配はないと思っている。
周りと違う道を選択するのは
今まで上手くいかなかった分を取り返そうとか
一発逆転を狙うといった考えというよりも
社会的な無能としての妥当な選択だと考える方がいいのかもしれない。
次に、期待しない
周りに期待されたらそれに応えたいと思うし
もしかして!?という期待はワクワクするけど
大抵は上手くいかないものでして
なので自分に何か期待をかけられたとして
それに見合うリターンがない場合は
(期待に応えるための行動に生きる価値を見出せない
体力や精神力の消耗が激しい等)
あらかじめ期待させないことが吉だろう。
また自分が他の対象に対して期待している時は
上手くいかないあるいは最悪の前提で取り組む方が
期待して裏切られたという無駄な感情の消費をしなくて済む。
これは自分自身に期待しないということも同じで
今度こそいけるはずだ!なんて可能性は見出すだけ無駄というか
それで自己嫌悪に陥るまでがパターンであることを
何度も経験しているので
自らに対しても期待しないのが良い。
起こりうる最悪の出来事をある程度予測しておく。
起こらなければそれだけで十分なのだ。
最後に、頑張らない。
頑張って何かを成し遂げるというのは
聞こえはいいし、実際に達成感は気持ちいいものだ。
若い頃は何かに取り組む上では
頑張ることが前提としてあった。
前述したように
周りにとって簡単なことは
自分にとっては難しいので
人よりも沢山努力する必要があると思っていた。
(それでもできないことはあった。特に勉強とか)
スポーツをやっていた時に
結果を出すためにすることは
努力すること、頑張ること
一度でもそれが実る経験があると
何かにつけて頑張ろうとしてしまう。
だが、今思うのは
何かを達成するとか、取り組むとか
一番必要なのは
頑張ることじゃなくて
どうすればそれができるかを理性的に考えることであって
頑張るために頑張るのは
むやみやたらに取り組むのと変わらない。
ガムシャラに取り組むというのは
無能にとってはむしろ進まないか逆戻りする可能性が
十二分にある。
頑張っても上手くいかなかったのは
頑張りが足りなかったのではなくて
上手くいく過程を踏んでいなかった場合が多いのだ。
何かにストイックに打ち込むとか、自分を追い込むとか
その意味で頑張るということが必要になってくると思うが
そもそも無能には追い込めるだけの余地なんてなくて
すでに追い込まれているのだ。
これ以上追い込まれたら崖から落ちるといったスレスレがデフォなので
むしろ頑張らずにできるようにするために
どうするかを考える方が得策だろう。
体力も精神も人より消耗しやすいくせに
回復するのに時間がかかる燃費の悪い僕のような人間は
いかに頑張らないかを考える方がいいだろう。
ここまで書いてきたが
別に社会的な無能として
打ちひしがれながら生きていこうということではなくて
社会から評価される世界には向いてないから
別の世界で自分を満足させられるような生き方を
築いていくことが自分の人生に意味を見出せる方法なのではないかということ。
社会的な価値とされている
金も名誉の肩書きも
死んだら自分の中には残らない。
ならばおそらく死ぬ最後まで一緒にいるであろう
心をどう満たすかの方が
生きる上では大切だと思うし
そのためには今、この時をどう感じ
何をするかを意識する方がよっぽど価値があるだろう。
いつか死ぬのは明らかな事実なので
一歩一歩死に向かって
ポジティブに近づけるような時間の過ごし方というか。
悲観してもしょうがない未来について考えるのは
不毛であって
万が一、未来を悲観している時に死ぬなんてことがあったら
なんとも悲しいだろう。
今の自分に何ができて、何がしたくて
それを自分と対話しながら選択して
その時その時を過ごしていく。
社会の価値とか評価じゃなくて
自分で自分を満たせる世界の中で
今日、外にでたら死ぬかもなとか
家にいても急に心不全になるかもなとか
ネガティブにではなく可能性として頭の隅に考えておいて
いつ終わりになっても受け入れられるような生き方をしていくことが
いいのではなかろうかというのが
現時点での考察です。

コメント